パザパ

パザパ pas a pas ・・・フランス語で一歩一歩。頑張らずでも一歩一歩前に進める日々を願って・・・

駆け足でやってきた春に戸惑っています

ここ福岡の地は、例年よりも早く多分日本で一番早く桜が咲き始めた。そして開花後一気に気温が上がり場所によっては既に散り始めている。昨年の桜と同じように、今年もマスク着用でもちろん桜の下での宴会?もなしで、ただ静かにひとり桜を眺める。そうかぁ去年の桜のときも同じだったんだ。もう1年近く人との接触を避けて、外出時には必ずマスク着用の生活が続いている現実に、時々胸が塞がれる思いになるけれど、自然界は変わりなく時間を刻み季節がめぐり春を告げる。花が咲き、花が散り、若葉が茂り、やがて枯れ、そして散る。その姿は刻々と変わっても、しっかりと大地に根を張る「木」の本質は変わらない。自然の姿に気持ち立て直す。

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5年前の春、夫の手術後、入院していた病院の庭に咲いていた桜の下を通りながら、重い気持ちを抱えて病室に向かった日々を、昨日のことのように思い出す。一向に回復しない症状にくじけそうになる気持ちをなんとか晴らそうと、病室の窓から何度も桜を眺めたっけ。退院後はずっと抗がん剤の投与を続けながら、3度の春を一緒に過ごした。いつも行ったのは油山の麓にある貯水場の近くにある桜並木だった。途中のスーパーでお弁当を買って、レジャーシートを敷いて弁当を食べて、ただそれだけのお花見。ただふたり静かに桜を眺める。そんななんでもない平凡な日々は、決して長くは続かないことを実は思いながらだったけれど。ひとりで眺める桜の春にまだ慣れないでいる。あれから2度目の春になっても、あの場所だけにはまだ行けないでいる。

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先日の朝日新聞『「魂」はそこにある』という京都大学名誉教授、佐伯啓思氏の記事が胸に落ちてきた。戦後の日本についてアメリカの文化人類学者ルース・ペネデイック氏は著書「菊と刀」において、西洋文化は「罪の文化」であり、戦後の日本文化は「恥の文化」であると解く。神さまの前で罪を懺悔する西洋文化と、世間体への恥を道徳概念とする日本文化。確かに、世間体を気にする文化は日本の社会に根強く残っている。佐伯氏は戦後70年、日本が失ってしまった「魂」という概念を、2001年の震災が日本人がかって持っていた「魂」を「霊性」を取り戻す契機となれたのではという。喪失の悲しみに打ち塞がれた日々から立ち上がろうとするときに、亡くなった人に見守られている、その魂に恥じない生き方をしなくてはという、「霊性」への回帰が背中を押して、生きる力へと昇華していったという。確かに私も亡くなった親に恥じないように、先に逝ってしまった夫に心配を掛けない生き方をしなくてはと、今は私の霊性が生きる支えになっているように思う。「魂はそこにある」良い言葉だな。

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スタジオレッスン後、映画「ミナリ」を観に行く。韓国映画だけれど、監督もスタッフもほとんアメリカで生まれ育った韓国人。農業での成功を夢見てアメリカに移民した韓国人一家が、様々な困難を乗り越えながらたくましく生きていく姿を描いた作品。異文化の中で多くの困難に翻弄されながらも日々懸命に生きる姿に、胸の奥にしみじみと温かさが染み渡っていくようだった。幸せって成功をすることでもなく、お金持ちになることでもなく、実はとてもシンプルでささやかな日常にあることを、ひとりひとりのこころの中にあることを、見終わって素直に嬉しく感じられた作品だった。第36回サンダンス映画祭でグランプリと観客賞を受賞したとか。国を超え人種を超え、実は共通のテーマであり思いであるのだろう。

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狭い庭の花たちが元気に春を謳歌するように咲いている。夫が2年前に植えたチューリップの球根は、去年は一株だけど花を咲かせたけれど、今年は結局どれも花を咲かせることは出来なかった。仕方ないね、葉が伸びただけのチューリップに声をかける。季節は行き過ぎる。いよいよ2021年度、新年度が始まる。相変わらずモヤモヤする思いを抱えたままだけれど、何か新しいことを始めたいな。ワクワクするものにこころを満たしたいな。始まりの4月、出会いの4月。「身口意」の言葉通り、行うこと(行動)、言うこと(言葉)、思うこと(こころ)がひとつになっているか問いかけながら、出来るだけ気持ちに正直に過ごしていこう。4月も変わらずの一歩一歩。
*最近改めて読んだ本  「三つ編み」 レティシア・コロンバニ著

*最近観た映画    「ミナリ」 リー・アイザック・チョン監督&脚本